ふくいん1号 -1998.1-

初詣?

 日本人の多くは元日には近くの、ある人は遠くの神社に初詣に行きます。これは日本人の文化であり、ある点では美徳であると考えている人がいます。初詣にも行かない人間は「人間味に欠けた、信心のない者だ」と言う人もいます。

 それでは、その神社で人は何を願っているのでしょうか。入試合格、交通安全、無病息災、商売繁盛、今年選挙に出る人は当選確実と言ったたぐいでしょう。しかも家では両親を馬鹿にして、家中の悩みを一人で作り出している息子も、入試となると神妙に神社の前に頭を下げて祈り、パチンコや飲み屋、キャバレーの経営者も商売繁盛を祈り、家族をほったらかしにして麻雀や競馬にうつつを抜かす中年の男も幸運と家内安全を祈願します。こうなると喜劇を通り越して悲劇です。

 戦争中、軍部は強制的に国民に兵士の武運長久を祈らせ、国家の戦争勝利を祈願させました。そして戦死した者を神社で祭り上げて、神格化し、国家のために命を捧げた人だといって戦死を美化し、戦争そのものが何であったのか、それが良かったのか悪かったのかの総括をうやむやにしてしまいました。

 この神社参拝が、ある重要なことをうやむやにする性格を持っていることに、皆様はお気付きにならないのでしょうか。

 明治政府は日本を西洋諸国に比肩しえる近代国家に築き上げるために富国強兵に走り、そのために日本を天皇を中心とした神道国家にし、軍事国家に造り上げました。学校では滅私奉公を教え、天皇のために殉ずることを美徳として教えました。そのためには宗教が大いに利用され、また宗教も軍部と手を結んで大いに繁盛しました。それは結局の所、一部の軍閥と大企業に貢献しただけで、日本人の99パーセントはひどい被害を受けたのです。それ以上に、近隣諸国の人々を筆舌では表現できぬ苦しみに会わせたことは決して忘れてはならない事実でしょう。

 1997年には多くの悲劇が起きました。奈良の月ヶ瀬の殺人事件、神戸の須磨の少年の事件、銀行証券会社の倒産等々、多くのショッキングな事件が多発しました。これらの事件には根底に共通項があります。それは、人間不在または人間無視、あるいは生命の価値観の喪失です。「国家のためならば、あるいは会社のためならば、人の生命などは犠牲にしてもかまわない。国家あっての、あるいは会社あっての個人だ。」という思想です。

 この思想は戦前も戦後も全く変わっていません。いや、我々日本人はそれを変えようとはしなかったのです。その思想が、そしてその思想に基づいた教育が日本を戦争に駆り立て、今再び次の悲劇へと駆り立てているのです。すでにその悲劇は起きつつあります。

 信仰心は人間にとって本能です。だからこそ人は自分が何を、そして何のために拝んでいるのかに細心の注意を払う必要があります。何のための商売かを考えない、ただ単なる商売繁盛、何のための人生、何のための学問かを考えない、ただ単なる入試合格を祈願させるような神は真の神ではありません。

 貴方も初詣をされたかもしれません。そうならば貴方は無神論者では無いはずです。しかし真の神は、天と地、万物の創造主であられ、唯一絶対なる方であられます。神は貴方に、ただの無病息災、家内安全、商売繁盛などを祈願することを求めてはおられません。神は貴方に、自分のいのち、人生の目的、意義、価値について、すなわち人生の根本の問題について考え、その答を神に求めることを求めておられます。ただ元旦の宗教行事だけで、貴方がこの重大な問題の回答を未だに得ていなことをうやむやにしてはならないのです。

 これは難しい、面倒なことではないのです。これは貴方にとって、絶対的に必要なことなのです。しかも簡単なことなのです。私たちの教会に来て、聖書に基づく神からのメッセージを聞いてください。それは必ず、貴方の人生に、また貴方の家族に真の幸いをもたらすに違いありません。

まことの医者

 ある、お医者さんにこんな質問をしました。「病気を治療する上で困る人とはどんな人ですか。」その答えは次のようなものでした。

 まず、自分で自分の病気を決めてしまう人(医者の見立てに文句を言う。肺炎なのに風邪ひきと言う人)

 次に、自分で治療法を決めてしまう人(病院で出した薬を飲まずに売薬を買って飲む。わたしにはこの治療法がよいと言う人)

 その次に、治療方法に従わない人(肝硬変なのに酒をやめない。結核なのに不摂生をやめない。きめられた薬をちゃん飲まない人)

 こんな人を治療をするのは非常に困難だと言われました。しかし、これらの人であっても、十分に時間をかけて説明すれば納得して治療に専念するとも言われました。

 一番困るのは、自分が病気だと気付ていない人。医者のところに来ない病人だと言っておられました。つまり医者のところに来ない限り直しようがないということです。

 Aさんはこのごろ少しからだがだるいと思っていました。前からもそのようなことがたびたびありましたが、よく寝たりすると元に戻っていました。だから今回もその延長だろう、最近、働き過ぎたから疲れがたまっているのだろうと思い、栄養剤を点滴してもらおうと病院に行きました。

 ところが、医者が診るとそれは疲れからではなく、非常に恐ろしい病気でした。

 でもその医者は病気を直すことができます。そこで、医者はAさんが恐ろしい病気にかかっていることを説明しました。また治療方法も説明しました。Aさんも納得して治療を受け、まもなくAさんはこの恐ろしい病気を克服し、元気になりました。この時にAさんにとって一番重要なことは何だったのでしょう。Aさんが「自分は病気にかかっている」と知ることです。そうでなければ、適切な治療ができないのです。

 さて、ここにすべての人がかかってる病気があります。それは「罪」という病気です。しかしほとんどの人がその事に気が付いていません。お医者さんに言わせれば、一番やっかいな患者です。また、気が付いている人も先ほどの困った患者と同じで、自分で手な診を下して勝手な治療をしています。

 👤「わたしを罪人と呼ぶなら、世間の人は皆罪人だ。私がしたことは罪ではない」

 🗣️「それは皆がしていることだから。私は人を殺した事もないし、盗みをしたこともない。わたしは罪人ではない。」

 👤「わたしの罪はそんなに大きくないから、賽銭を多く払えば赦してもらえる。」

 👥「確かに、わたしは罪を犯した。しかし、B教の者になり、そこで禊ぎをしてもらったから赦されている。」

 自分が病気だと知らずに病院に行ったAさんに対して、医者は初めに何をしたでしょう。Aさんが病気にかかっていることを説明し、この病気がどれ程怖いものか、このままだとどうなるのかを説明しました。

 私たちも同じです。まず自分が「罪人」であることを知らなければなりません。次にその罪の結果がどのようなものかを知らなればなりません。

 神のみことばである聖書はこの事について何と言っているでしょう。

すべての人が罪を犯した

ローマ人への手紙3章23節

 神を無視しているあなたは、罪人です。

罪から来る報酬は死です

ローマ人への手紙6章23節

 その罪の結果は死です。

人間には一度死ぬことと死後さばきを受けることが定まっている

ヘブル人への手紙9章27節

 人間は、死んで終わり(消えてしまう)ではなく死後さばきがある。しかも永遠の地獄でのさばきです。このように記されています。

 でも多くの人は言います。「わたしは人間としてできるだけのことをして生きている。いやむしろ積極的に良い行いをしている。社会事業をしているし、慈善事業に寄付もしている、親を大事にし、家族を愛しているそれでも罪人なのか。」

 罪は無免許運転のようなものです。どんなに注意して運転していても、どんなに上手に運転できても、実際に一度も事故を起こさず、交通法規を完全に守っていても。それは法を犯しているのであって、罪であり許されないことです。

 人間も同じです。人生でどんなに良い人、立派な人、聖人といわれる人であっても、事実そういわれるだけの事を行っている人であっても、神を無視していなら、その人は「罪人」です。神を認めないことはもっとも大きな罪であり赦されるものではありません。その行き着くところは永遠の地獄です。何と恐ろしいことではありませんか。

 しかし、聖書には地獄からの救いが記されています。

 今から約2000年前イエス・キリストが十字架にかけられ死なれました。このイエス・キリストの十字架の死があなたの罪のためであったといえば、驚かれるかも知れません。そして、「キリストと私と何の関係もない。」といわれるかも知れません。聖書には、

キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた

コリント人への手紙第一15章3節

と書かれてあります。

 そうです。イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり死なれたのです。イエス・キリストは私たちの身代わりとなって神のさばきを受けてくださったのです。そして、神は聖書を通して、

御子(イエス・キリスト)を信じるものはさばかれない

ヨハネ3章16節

という約束も与えてくださいました。ただ借じるだけで、あなたの罪はすべて教され、死後の永遠のさばきから救われるのです。この救いを是非受け取ってください。

死の恐怖からの解放

 私が長野氏に初めて会ったのは、神奈川県の金沢八景にある長浜療養所を福音伝道のために訪問したときであった。彼の顔は、鼻と口の周りの部分を除いて顔全面がやけどのケロイドで、大変醜くなっていた。それは戦時中、彼の乗っていた戦闘機がB29の迎撃中に撃たれて、火を噴いたときの傷であった。

 戦闘機は空中爆発し、気が付いたときには空中を猛烈なスピードで地上に向けて落下中であった。しかも落下傘が開いていなかった。彼は必死になって落下傘を開こうと試みたが、無駄だった。が突然、それが開いた。しかし地上に余りにも近かったので地面に彼は叩き付けられた。幸いにも彼が落ちたところは利根川の泥の上だった。しかも、見付けてくれた人がすぐに彼を泥の中から救出してくれたので泥に埋もれずに助かったのであった。

 戦後、骨盤と肋骨の骨折が癒えた彼はタクシーの運転手の職業を選んだ。だが彼は正常な生活ができなかった。あの空中での死の恐怖が、余りにも強烈に彼の心に焼き付いてしまっていたからである。毎夜、彼は自分が空中を落下している夢を見、大声で叫んだ。彼は「人は死んだ後、どうなるのか。何かあるのか、それとも無なのか。誰かこのことを明らかにしてくれる人はいないのか。」といつも真剣に考えさせられていた。

 彼は夜夢を見ることが怖くて、渡る前に酒を飲んだ。その上仕事の無理がたたって、ついには結核になり、長浜療養所に入院していたのであった。彼は同室の佐野君に誘われて、福音伝道集会に出席した。そこで彼が聞いたことは次のことである。

 「万物の創造主でいます神は存在される。神は人間を霊と肉体にお造りになった。だから人は死んだ後も無にはならない。魂は永遠に存在し続ける。しかし、神に罪を犯した者は、死後、罪のさばきにあう。そのさばきとは地獄の中での永遠の苦しみである。しかし、神はすべての罪人を愛しておられ、罪人を救うために、ご自身の御子を人としてこの世界に遣わされた。この全く罪なき子イエスを罪人の身代わりとして十字架につけ、すべての罪をこの御子に負わせ、罪の刑罰を受けさせられた。神はこのイエス・キリストを死後三日目によみがえらせ、この方こそ真の救い主、神の御子であられ、誰でもこの方を救い主として信じ受け入れる者の罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださると宣言された。」

 長野氏は、あの空中で味わった死の恐怖の原因は、彼が自分の死を自覚したとき、良心が目覚め、それまでの罪を鮮明に思い出させられたためであり、死そのものよりも死後のさばきに対する恐怖であったことを素直に認め、そして彼は主イエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れた。彼は死の恐怖からも解放された。まもなく彼は、病気も癒え、元気に郷里の奄美大島に帰っていった。