真の神、偽りの神々
偶像を造る者はみな、空しい。
彼らが慕うものは何の役にも立たない。それら自身が彼らの証人だ。
見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが神を作り、偶像を鋳たのか。何の役にも立たないものを。
見よ、その人の仲間たちはみな恥を見る。それを細工した者が人間に過ぎないからだ。
彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて、ともに恥を見る。鉄で細工する者は工具を用い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。
腹が減ると、力がなくなり、水を飲まないと、疲れてしまう。木で細工する者は測り縄で測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、
人の形に造り、人間の立派な姿に仕上げて、神殿に安置する。杉の木を切り、うばめ樫や樫の木を選んで、林の中で自分のために育てる。
月桂樹を植えると、大雨がそれを生長させる。それは人間のために薪になり、人はその一部を取って暖をとり、これを燃やしてパンを焼く。
また、これで神を造って拝み、これを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。半分を火に燃やし、その半分の上で肉を食べ、肉をあぶって満腹する。
また、温まって、『ああ、温まった。炎が見える』と言う。その残りで神を造って自分の偶像とし、ひれ伏してそれを拝み、こう祈る。
『私を救ってください。あなたは私の神だから』と。彼らはよく知りもせず、理解もしない。
その目はふさがれていて見ることもできず、その心が賢くなることはない。彼らは考え直すこともなく、このように言う知恵も英知もない。
『私は、その半分を火に燃やし、その炭火の上でパンを焼き、肉をあぶって食べている。
それなのに、その残りで忌み嫌うべきものを造り、木の切れ端の前にひれ伏すのか。』灰を食物とする者は、心が欺かれ、惑わされて、自分を救い出せず、『私の右の手に偽りはないか』とさえ言わない。
イザヤ書44章9節〜20節


日本には八百万の神がいると言います。そのような中で育った私たちが聖書に書かれてある「神」を、「神々」のうちの一人と考えることは無理のないことかもしれませんが、そのような先入観を捨ててもう一度「神」について考えてみてください。
日本人の考える「神」は、八百万の神々です。つまり分業の「神々」と言えます。そして、聖書が語る「神」は、唯一です。つまり全知全能で唯一絶対の「神」です。
さて、分業している「神々」に本当の力があるのでしょうか。分業している「神々」はなぜ分業しているのでしょうか。一つの力しか持っていないからです。このようなものは本当の「神」ではありません。
また、ある人は、それぞれの国に「それぞれの神があるのだ。聖書の語る神は西洋の神であり、日本人には日本の神がある。インド人にはインドの神がある。」と言います。これはおかしいことではないでしょうか。
一つのことで考えてみましょう。神話の中で最もポピュラーなのが、神が人を造ったという話です。
日本神話は「いざなぎいざなみの尊が日本人を造った。」と言い、
インド神話は「インドの神がインド人を造った」と言います。
では何故、世界中の人間が同じ形をしているのでしょうか。それどころか体内の構造が同じなのは何故でしょうか。「神々」が会議でも開き、人間の体の構造はこうしよう決めたのでしょうか?
そうではありません。唯一まことの「神」が人間をお造りになったからです。
しかし、日本人は反対に多くの神々を造ります。それは人が、動物、蛇、大木、巨石、奇岩、自然の力、偉い人等々を神に仕立て上げると言ってもよいでしょう。はたして、人が造ったものが「神」であるのでしょうか。
まさに聖書の中のイザヤ害四十四章に書かれてあるように、木の一部分で「神」を造り、ある部分で食物を焼き、ある部分でイスを造る。木で造った神を踏みつけると罰が当たるといい、同じ木で造ったイスを平気で尻の下に敷いている。
しかし人々はこう言います。「同じ木で造た物でも仏像は魂が入っている。だから神だ」と。では、仏像に魂を入れたのは誰なのでしょうか、神主か僧侶です。彼等は人間にすぎないのです。
このように、人間が造ったものを「神々」として拝むことは、まことの「神」に対する侮辱であり、罪です。
日本人はよく太陽を拝みます。その理由は、ただで、誰にでも光と熱を与えてくれるからです。しかし、太陽は神がお造りになったものなのです。まことの神がおられ、太陽を造られたから、私たちは太陽の恩恵を受けているのです。
しかし、人々は神に感謝せず、太陽に感謝しているのですそれは、次のようなことをする人と同じです。冬の寒い日に雨に濡れていた時、親切な人が家に入れてくれてストーブをつけてくれました。しかし、その人は家の人にお礼を言わ ず、ストーブに向かって「ありがとうございます。」とお礼を言って感謝しました。このような人を見てあなたは何と思われますか。おかしな人だと思われるでしょう。
このように、考えてみると日本人が考えている「神」という観念は非常に矛盾だらけであることが分かります。人が神を造るのではなく、神が人を造ったのです。そのことを高らかに室言しているのは聖書のみです。
そして、人間は神によって生かされています。神から離れた人間に価値はないのです。人の手から離れ海に落ちた時計が海底で時を刻んでいても全く価値はないのと同じように、神から離れた人間には価値がないのです。目的がないのです。
聖書はこのこと(人間が神を無視していること)を「罪」と言っています。そして、その罪には裁きが伴うと語っています。その裁きとは、死後に永遠の火と硫黄の燃える「地獄」に入れられる事です。最近「死」や「死後」を美化する傾向があります。
「死は怖くはないのだ、死はこれから始まる楽しい事への入り口なのだ。天国への出発点だ」と宣伝します。かつては葬儀は陰気な、暗い、悲しいものでした。しかし最近の葬儀はセレモニーといわれ、明るく、悲しみの中にも希望があるような演出がなされます。花一つ見てもそうです。昔は菊の花と、樒だったものが色とりどりの花と、明るい雰囲気の中で葬儀が執り行われます。死に装束のファッションショーが行われたり、棺桶の形も変わってきたりしています。
しかし、どのように明るい、楽しい葬儀をしたとしても、まことの神を認めない「罪人」の死後は地獄であることを忘れないでください。このことに恐れを持って死とは何かを真剣に考えてください。そして、地獄のさばきから救われる方法を真剣に考えてください。
答えは聖害にあります。イエス・キリストがあなたの罪の刑罰を身代わりに受けて十字架で死なれました。イエス・キリストの十字架の死は、あなたが神から受けなければならなかったさばきなのです。
このイエス・キリストをじる者は救われます。先入観や常識、世間体や習慣にこだわり、永遠の地獄に行かないで下さい。イエス・キリストを借じ罪の赦しを受け、いつ死んでも天国に行ける方となって下さい。
経済危機
山一証券が廃業し、北海道拓殖銀行が営業停止し、他の幾つかの小さな信用組合、銀行がなくなってしまった。これは日本の経済に大きな影響を与えているだけでなく、アジアにまた世界に大きな影響を与えている。一体このような破綻はどこから生じたのだろうか。すべての責任が大蔵省にあるというのではないが、その原因の非常に大きな部分を大蔵省の現役の高官らと天下った元役人の金まみれの腐敗と、それにその腐敗にたかり付いている族議員にあることは明白な事実である。日本は経済大国であると思っていたところ、その経済構造の土台が、頭の黒いシロアリどもに食い荒らされ、がたがたにされていたのである。
ではなぜこのようになってしまったのだろうか。それは田中角栄以来の、金は力なりの金権主義が官僚と代議士の心を蝕んでしまったからである。しかしそれは、官僚や代議士だけのことではない。日本全体がその悪い影響に汚染されてしまっている。実にそれは精神的ダイオキシンである。バブルの時は日本中が異常心理であった。アメリカの著名な経済学者までが、21世紀は日本の世紀であるとさえ言った。ところがその時はすでに多くの大銀行の土台が「シロアリども」に食い荒らされていたのである。
明治大正昭和の初期には曲がりなりにも道徳があった。その道徳が日本人の心を支えてきた。明治の時には文明開化、富国強兵という目標、大正では大正デモクラシーに見られるような産業・社会構造の近代化、昭和では一億一心、戦争勝利という目標があった。しかしそのようなものを根拠とした道徳には一時的な効果はあっても、結局は日本を戦争に突入させ、敗戦へと導いた。
敗戦後の日本の道徳には根拠と言われるべきものがなかった。日本人の目標としたものは戦争で潰れた日本の復興だけであった。そして復興したとき目標がなくなってしまった。そして日本人が手にしたものは海外旅行、ゴルフ、自動車、酒、セックス、贅沢だけであった。そしてそれが大蔵官僚を腐敗させ、日本全体を混乱に巻き込んでいるのである。しかもそれは他人事ではない。日本全体の家庭の問題であり、職場での問題であり、(大阪府庁の深刻な問題でもある。)私たち個人の問題でもある。そして山一証券、大蔵省の事件が起きた。これは私たち個人への警鐘である。
世界の歴史を見てみよう。起き上がった文明はすべて、最後に内部の腐敗によって倒れてきた。ローマ帝国がその典型的実例である。そして日本も今腐ってきている。神なきところに道徳は存在しない。神なき企業は虚業になり、神なき教育は弱肉強食の生存競争の手助けに過ぎなくなる。そして神なき家庭、神なき個人は存在の目的を見失っているのである。
読者の方々。万物の創造主でいます真の神の存在を知ってください。しかもその神は皆様を愛しておられるのです。皆様が神なきところに、如何に熱心に求めても決して幸せは見つかりません。神なき人生は、最後は失望に終わります。
「露と落ち、露と消えにし我が身かな。浪速のことも夢のまた夢。」と秀吉は辞世に詠いました。
「幻や、夢やとすぎし仇し世に、なご涙しも尽きせぬかな。」と巴御前も歌いました。
しかし、真の神のところには、真の救いがあります。一度しかない皆様の大切な人生を真の神なく、ただ金と快楽の追求のみに終わらせないでください。皆様の人生には必ず死があり、しかも死後には永遠の時間があることを覚えていてください。
今、私たちの教会に来て、真理のメッセージをお聞きください。
