ダーウィンが「種の起源」を発表した1859年から6年後に生物の遺伝に関する大変重大な発見がオーストリアの修道司祭で植物学の研究を行ったグレゴール・ヨハン・メンデルによってなされました。

メンデル以前には、子が親に似るという遺伝を説明する法則は無く、親の卵子と精子に存在する”何らかの液状のモノ”が混ざりあって、両親の特徴を子に引き継ぐと考えられていました(融合説)。これに対し、メンデルはこの法則で、一つの親の性質(形質)を決めているのは何らかの単位化された粒子状の物質ではないかと考えました。
彼はブルノ(現在のチェコ)にあるトマス修道院の見習いとして、修道院長の作物の品種改良にを手伝うことから遺伝研究に入っていきました。彼は1853年から1868年にかけてエンドウマメの交配実験をおこない、1865年にブルノ自然研究会で口頭で発表し、翌年その会誌に論文「雑種植物の研究」を発表しました。
メンデルは修道院の庭にエンドウを植え、その種子の形や子葉、種皮の色、サヤの硬さや色、花の付く位置、茎の高さなど七つの形質を用いて交配実験をし、分離の法則・優勢の法則・独立の法則を発見しました。

1900年に入ってメンデルの法則がドイツのコレンズ,オーストリアのチェルマック、オランダのド=フリースが再発見したことで,メンデルの業績がみとめられるようになりました。
イギリスで動植物の変異の研究をしていたウィリアム・ベーツソンはメンデルの法則を受け入れ、イギリスに広めていきました。彼はその著書『メンデルの遺伝の法則』(1909)で「微小な変化が集積して多数の個体が徐々に変形することによる進化という考え方は遺伝学の研究によって誤りであることが明白になった」と述べ、ダーウィンによる自然選択説はありえないと主張しました。
ダーウィンの進化論を信じる生物統計学派とメンデル学派の激しい論争は、メンデルの法則の正当性を支持する実験データが次々に発表されるに至って、メンデル学派の勝利に決着を見たのでした。
