津久野キリスト恵み教会

信徒向けメッセージ

天に望みを置いて・・・。

「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)

ここに記されているように、私たちイエス様を信じた者の国籍・住まいは天にあります。その住まいとは「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙示録21:4)場所で、「いつまでも主(神様)とともにいる」(Ⅰテサロニケ4:17)ことができるというのです。永遠を素晴らしい場所で、素晴らしい御方とともに過ごすことができるとは、何という幸いでしょうか。私たちには希望があるのです。

さて、では私たちはこの素晴らしい希望に目を留めて、天に行くことを望みとして歩んでいるでしょうか?

このみことばは、「けれども、」という言葉をもって始まっています。ということは当然、この前の言葉を踏まえた上での話であるということです。このみことばの前、18、19節には、「キリストの十字架の敵として歩んでいる」者たちについて書かれています。この者たちは、自分の欲望を自分の神として歩んでいました。彼らの思いはこの世のことでいっぱいでした。こういう者がたくさんいるのだとパウロは語っています。彼は、キリストの十字架の敵として歩んでいる者たちについて語るときに涙をもって語りました。なぜならそういう人が、教会の中に、キリストを信じていると告白している者たちの中にいたからです。イエス様を信じていない人達が自分の欲望に従って生き、この世のことを考えるのは当然です。彼らは「望みのない人々」(Ⅰテサロニケ4:13)であるのですから。まだクリスチャンでない人達、つまり天に行くことのできない人達が、この世の事柄に目を向け、それを追い求めることは至極当然です。

しかし、キリストを信じ、天に国籍を持つ者とされた私たちが、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」(Ⅰコリント2:9)を相続することが約束されているクリスチャンが、天に行くことができないような人達と同じような生き方をしていて良いでしょうか。当然それは私たちに相応しい生き方ではありません。

残念なことですが、パウロの時代と同じように今の時代にも「十字架の敵」として歩んでいる者たちが多くいます。しかし、どれだけ多くの者が間違った考え方、価値観、目標をもっていたとしても、それに惑わされてはいけません。クリスチャンは、いつも天に目を向け、そこに行くことができるその時を熱心に「待ち望む」べきです。

「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」 (Ⅱペテロ3:13)

このことばが、私たちの真実な告白でありますように。

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