津久野キリスト恵み教会

ふくいん37号 -2009.9-

さて、今年も8月には多くの人々が田舎に帰って「盆」の行事に参加したのではないでしょうか。しかし、よく考えてみると、それは矛盾だらけの教えであることが分かります。盆の間、先祖が家に帰ってくるというので、最初の日に迎え火を焚きます。しかし、先祖が家にいるはずなのに、盆の間に家から離れた墓に出て行って墓参りをします。また、誰かが亡くなった時には、「~さんは天国、あるいは極楽に行った」と言います。しかし、盆の時期になると地獄の釜のふたが開いて、先祖が出てくると言うのです。だとすると、先祖が盆の時期以外は地獄で苦しんでいることを認めているのです。また仏壇に供え物をしますが、もし本当に供え物が減っていたら、誰も「先祖が食べた」とは言わずに、驚くか、子どもを叱るかするでしょう。つまり、それらの教えは気休めであって、実際には人間の死後の行き先について何も分かっていないということをよく表しています。

愚かな気休め

多くの宗教が、様々な死後についての教えを語ります。しかし、先の例を見ても分かる通り、それらはただ「そうであればいい」という空想であり、根拠のある確かなものではないのです。

たとえそれが、どんなに気休めになる良い話であったとしても、ある人の感情と合うものであったとしても、根拠のないことを信じ込むのは盲信と言わなければなりません。

たとえば、本当はそこに椅子がないのに、あると思い込んで誰かが全体重を任せたらどうなるでしょうか。当然その人は尻餅をついて怪我をしてしまいます。また、誰かが下にマットがあるものと思い込んで、ビルの屋上から飛び降りたらどうなるでしょうか。もちろんその人は助かりません。ですから、私たちは本当に根拠のある確かなものを信頼しなければならないのです。「~さんは天国に行った」、「これだけ盛大な葬儀を上げたから、~さんは極楽往生した」と言っても、それがもし思い込みなら、何の役に立つでしょうか。

死んだらどうなるのか

さて、では人は死んだらどうなるのでしょうか。ここで、イエス・キリストが死後についてどのように語っておられるのかを見たいと思います。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれます。」(マタイの福音書 5章22節)

「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」(ルカの福音書 12章4・5節)

死後について語れる資格者

このようにイエス・キリストは、人間が死んで終わりではなく、死後に罪のさばきを地獄で受けなければならないと語っておられます。では、イエス・キリストの言われることが確かに信頼できるという根拠は何でしょうか。それは、イエス・キリストの復活です。

イエス・キリストは十字架で死なれた後、三日目によみがえられました。では、このキリストの復活は、現実に起こった事実なのでしょうか。それとも、作り話なのでしょうか。

まず、全ての人が認めざるを得ない二つの事柄があります。それは、

①キリストの体が納められた墓が空っぽになったこと

墓の中に死体が残っていたなら、キリストが復活されていないことは誰の目にも明らかです。もしそうなら、キリストの復活を真面目に信じて、命がけでそれを伝える者たちが数多く起こるはずがありません。

②キリストの復活の目撃証人である弟子たちが数多くいたこと

これは、あらゆる歴史家が認めていることです。彼らはよみがえられたキリストを見たと証言しました。彼らが厳しい迫害に耐えながら、キリストの十字架と復活を宣べ伝えた結果、キリスト信仰はどんどん広がって行ったのです。

キリストの復活は嘘なのか

これら二つの事実を、復活以外の理由で説明できるでしょうか。最もあり得そうな説明は、弟子たちが死体を盗んで、キリストが復活したという嘘を作り上げたということでしょう。しかし、もしそうだとしたら、キリストの復活が嘘であることを弟子たち自身が一番よく知っていたはずです。当時はクリスチャンに対する厳しい迫害があり、実際にキリストに対する信仰のゆえに命を奪われた人たちや酷い拷問にあった人たちもいました。そのような時に、殺される危険を冒してまで、自分で嘘だと分かっていることを伝える人がいるでしょうか。人は自分の身を守るためや何か得をするために嘘をつくのであって、自分が何の得もせずに殺されるために嘘をつく人が大勢いるということはあり得ません。ですから、弟子たちもキリストの体を盗んでいないのです。残る答えは、キリストご自身が復活され、墓から出て来られ、そのよみがえられたキリストを弟子たちが見たということです。

本当の救い主

キリストが復活することがおできになったのは、このお方がただの人間ではなく、天におられた神のひとり子が人となって地上に来られたお方であられたからです。そのキリストが人間の死後には火の燃えているゲヘナ(地獄)があると語られたのです。ですから、私たちはその地獄から救われなくてはなりません。実に、そのためにこそキリストは人となってこの地上に来てくださいました。キリストは、私たちが受けるべき罪の罰を全て、十字架の上で身代わりに受けて死んでくださったのです。

ですから、私たちは自分が本来なら地獄でさばかれるべき罪人であることを認めて、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるならば、地獄から救われるのです。そして、すばらしい永遠の天国に入れて頂けます。クリスチャンは、たとえ死を迎えたとしても、天国という確かな希望を持って喜ぶことができます。ですから、もしもみなさんが、死後について根拠のない考えを持っておられるなら、その間違いを捨てて、イエス・キリストを受け入れてください。

"宗教"

私たちが普段から何気なく使っている「宗教」という言葉があります。この言葉が「世界三大宗教はキリスト教、イスラム教、仏教です」というふうに使われますと「宗教」というものはいろいろあっても異種同根なのだという印象を与えてしまいます。

現代では「宗教」の意味は広辞苑で調べても分かるように概ね”神を信じる信仰”という意味になっています。けれどもこれは明治時代に英語のreligionから取られた意味であって元々は仏教的な概念を表す言葉でした。「宗」は究極的な真理を「教」はその説明を意味するものなのだそうです。ちょうどそれは現代における「哲学」の言葉の意味と同じです。

興味深いのはこの「哲学」という言葉が実は日本語にはなかったということです。西周という学者が西洋哲学(philosopy)を紹介するために明治時代に造語したものなのだそうです。その意味は”思想・行為を支配する過程の研究”ですがまさしくそれは先に説明したもとあった仏教用語の「宗教」の意味そのものなのです。ですから、実際的には今も日本人にとっては宗教も哲学もほとんど同義語なのです。ここに私たち日本人の宗教観の重大な欠陥があるのです。

キリスト信仰は哲学でも宗教でもありません。キリスト信仰はイエス・キリストの十字架の死と復活という歴史的事実に基づくものです。真のクリスチャンはキリストを信じる信仰によって事実神の子どもにされており、今も生きておられる真の神様を礼拝しているのです。