津久野キリスト恵み教会

ふくいん71号 -2021.6-

放蕩息子

イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。

弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。

それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。

何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。

それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。

彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。

立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。

もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。

そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。

この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

(新約聖書ルカの福音書15章)

冒頭の聖書のみことばは、イエス・キリストが語られた、「放蕩息子」と呼ばれる有名な話です。イエス・キリストはこの話を通して、神様に対する人間の取るべき態度について教えようとされたのです。

さて、父のもとを飛び出して放蕩生活を送った息子が、自分のしたことの間違いに気づいたのは何がきっかけだったのでしょうか。それは、「放蕩して…何もかも使い果たした」こと、そして「激しい飢饉が起こり」食べるものもなくなり、行き詰まったことです。しかし、このことはある面で彼にとって幸いでした。その結果、彼は、彼を本当に愛している父のもとに帰ることができたのですから。

行き着く先は・・・

これは、私たちにも言えることです。私たちの周りには様々な問題が起こります。病気の流行、地震などの災害、また家庭や職場での色々なトラブル。私たちには、なぜそのようなことが起きるのか、その理由を完全に知ることはできません。

そのような時に、ある人々のように、「神がいるならなぜ…」「だから神など信じられない」という資格は人間にはありません。なぜなら、そもそも多くの人は、まことの神様がどなたなのかを知ろうともせず、神を無視して生きているからです。医者の言うことを無視して好き勝手な生活をした人が大病を患っても医者に責任がないように、神を無視して生きていながら、悪い結果が起きた時だけ神のせいにするのは大間違いです。

しかし、最初の放蕩息子の話を読む時に、少なくとも何らかの問題や苦しみが、自分を見つめなおし、あるべき場所に帰るためのきっかけになり得ることはよく分かります。

人間は全てがうまく行っている時に、立ち止まって深く考えることをなかなかしません。いや、むしろ人生に成功していると思っている人は、造り主である神に対して非常に傲慢な考えを持ちやすいのです。神など必要ないと考えるからです。もし、あなたが何かの問題にぶつかっているなら、むしろこの点においては幸いです。ぜひ、我に返り、あなたを造られ、生かしておられる神のもとに帰ってください。

なぜなら、そうでないと「何もかも使い果たした後」と書かれているように、あなたの人生の時間もあっという間に過ぎていきます。そして、人間は人生を終えた時に、生きている間に行なったすべてのことに対しての精算を神の御前でしなければなりません。

「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も(神の)御座の前に立っているのを見た。…いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」

(ヨハネの黙示録 20章12・15節)

人間は誰でも嘘をつき、人と争い、心の中で悪いことを考えたりします。また、木や石でできた偶像を拝み、まことの神を無視しています。その罪の結果は、永遠の地獄での刑罰です。

イエス・キリスト

しかし、そのあなたの罪を赦すために、神は大切なひとり子、イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださいました。そして、イエス様は十字架につけられてくださり、私たちの代わりに罪のさばきを受けてくださったのです。さらに死後三日目によみがえられ、天に帰っていかれ、今も生きておられます。どうか、あなたも自分の罪を認め、イエス・キリストを自分の救い主、神として信じ受け入れてください。神は地獄に向かっているあなたを「かわいそうに思い、駆け寄って…首を抱き、口づけした」いと願っておられます。そして神のおられる天国に迎え入れ、いつまでも続く「祝宴を始めた」いと願っておられるのですから。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書 3章16節)