津久野キリスト恵み教会

ふくいん36号 -2009.4-

私たち人間はひとり残らず一つの重大問題を抱えています。それは必ず死ぬということです。そして、その死後に何があるのか、ということが問題であるのです。

ある人は、人は死ぬと無になると言っていますが、そう言っている人も一度死んで死後に何もないと確かめたことがないので、死後に自分が無になることを希望しているだけのことです。

私たち人間は誰も生まれようと思ってこの世に生まれ出てこれたわけではありません。この問題を解く鍵は、私たち人間と周囲にある全てのものを造られ、いのちをお与えになった造り主が存在されることを認めるか、認めないかであるのです。

神の存在

形のある物が偶然に出来ることは絶対にありません。飛行機は偶然には絶対に出来ません。自動車も工場で造られなければ、偶然には絶対に出来ません。ですから、飛行機が一機でもあれば、その製造者がいることは明白です。それと全く同様に、地球上には非常に多くの植物と動物がいます。さらに、私たち人類がいます。これらが偶然に発生したのではなく、神によって造られたのであることは明らかです。創造主なしには何ものも存在し得ないのです。

これほど明白なことであるにもかかわらず、創造主なる神の存在を認めたがらない人々が何と多いことでしょう。神の存在を認めないとどのようなことになるのでしょうか。次のような非常に間違った、また非常に危険な考えに陥ります。

①人間には創造主がなく、偶然に発生したものであるから、人間の存在自体に目的がなく、個人が生きていることにも目的などはない。だから、自分の思い通りに生きればよい。

②人間は物にすぎないから、生きるのが嫌になったら死ねばよい。生きていて欲しくない人間は殺せばよい。

③人間は本能に従って生きている動物なのだから、本能的欲望のままに生きればよい。幸せとは、欲望を満足させることである。不幸とは、欲望を満足させることが出来ないことである。それで、自分には金がないので欲望を満足させることが出来ないから不幸せである。

④金がなければ幸せになれないから、金儲けを第一に考えるべきである。他人を騙してでも、自分の金儲けを考えよう。他人を犠牲にしてでも、自分の幸せを第一に求めよう。

⑤人生とは生存競争である。生き残るための戦いである。他人を殺してでも自分を生かそう。

実際にこのような生き方、このような考え方の人々が大勢います。神はこのような考え方、またこのような考えに従って生きることを罪としておられます。あなたはこのような考えを持っておられませんか。

神の御存在を否定しているならば、あなたもこのような考えから決して逃れ得ないのです。これは、唯物論者が必然的に到達する思想であるからです。

救い

罪を犯した者の死後には、罪のさばきがあります。それは、火の池である地獄での永遠の苦しみです。そのさばきからだれも逃れることは出来ません。そして、神に対して罪を犯したことのない人はひとりもいません。ですから私たちは全て罪の赦しが必要であるのです。

神は全ての人に罪を悔い改めるように命じておられます。罪を悔い改めるとは、自分のこれまでの人生についての考えが間違っていたために、神に敵対していたことを率直に認め、真の神を自分の神として受け入れ、真心から神に罪の赦しを求めることです。主イエスはこのように言われました。

「わたしはお前たちに言う。お前たち全ても悔い改めなければ、同じように滅びる。」

神は、罪の赦しを求めて神に立ち返る者のために救いを用意しておられます。神は、御自分のひとり子でいますイエス・キリストを処女マリヤを通して人間として生まれさせてくださいました。それは、その御子を私たちの救いのために十字架に付けるためであったのです。神の御子イエスは私たちが犯した全ての罪を御身に背負い、私たちの身代わりとなって罪のさばきを受けてくださったのです。神はこの御子を死後三日目に甦らせ、イエス・キリストこそ真の救い主であられ、御子を自分の救い主として信じ受け入れる者をお救いくださることを明瞭に示してくださったのです。

罪を悔い改めて、イエス・キリストを受け入れる人は、だれでも救われます。しかし、罪を悔い改めない人は、だれも救われません。たとい、クリスチャンと自称していても、洗礼を受けたことがあっても、教会員であっても、またどのような団体に属していても、どのような宗教行事を行っていても、それらがどのようなものであっても皆様方を決して救いません。

どうかイエス・キリストを信じ受け入れて罪のさばきから救われ、天国に行く方となってください。

"おくりびと"

今年の2月に日本の映画『おくりびと』が第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞しました。その内容は死者の遺体を棺に納めるために死に化粧をしたり、死に装束を着せたりする職業についた主人公の物語といったものでした。

この映画が受賞したことで「納棺師」という職業が注目されています。ある葬儀社のスタッフは「死は等しく私たちの眼前に現れます。しかし私たちは、自分だけは死なないと思いながら生きているような気がします。毎日のように死と接している私もおそらくそうです。通夜や葬儀で遺体を前にしていてさえ死を他人事として捉える節があるように感じます。」と告白しています。そして、死を意識して生きることこそが大切なことではと言うのですが皆様はどうでしょうか?

けれども、ほとんどの人は自分の死について考えるという時に葬式はどの様にしてもらおうとか、遺産相続はどうしようとかを心配するようです。それは自分の死に向き合っていることにはなりません。なぜなら、それらの事柄はこの世の事で、肝心の自分自身はすでにこの世にいないからです。人間は霊的な存在なのです。私たちは「死に向き合う」という時に自分のたましいは死後どこへ「おくられ」ようとしているのかを考えるべきです。