津久野キリスト恵み教会

ふくいん45号 -2012.4-

神は存在されるのか? 人間は何のために存在しているのか? 人間の死後に何があるのか?

これらは全ての人にとって考えなければならない最も重要な問題です。考えても判らないし、答えが出るはずがないから考えないという事は、逃避以外の何ものでもありません。これらは、たとい避けようとしても、必ず全ての人がやがて、いや今現に、直面しなければならない重大な問題なのです。

神は存在されるのか?

神は存在されるのかという質問に対して、もし神が存在されないならどのような考え方になるのか、逆の点から考えを進めます。 万物の創造主なる神なしに、この宇宙、地球上の全ての生物、人間が偶然に発生したと言うなら、はたして生命が偶然に発生し得るのか?を考えなければなりません。もし、生命が偶然に発生し得たと言うなら、現在でも生命が偶然に発生していなければなりません。そして、現在でも生命が偶然に発生していることを科学的に証明できないなら、過去において地球上に生命が偶然に発生したという考えは空想に過ぎないのです。それは上流から流れて来た大きな桃の実をおばあさんが拾い上げ、家に持って帰って切ろうとしたら、勝手に割れて、中から子どもが出て来た、というおとぎ話を真実と思い込むことと同じほどのことなのです。

科学が生命が偶然に発生し得ると実証できないなら、生命自然発生説はおとぎ話であるのです。先日、某新聞に生命が発生し得る地球がビッグバンで出来た確率が10の120乗分の1(これは極めて楽観的な値です)との記事がありました。しかし、ビッグバン説が正しいと仮定して地球をもう一度、宇宙発生のビッグバンの状態に引き戻すことができたとしても、その確率ではそのような地球が偶然に出来ることは、決して期待できません。

ですから、無神論は全くの迷信です。宇宙とその中の全ての生物は神によって創造されたのです。

人間は何のために存在しているか?

万物の創造主なる神は実在されます。ですから、私たちは神が何のために人間を創造されたのかについて考えなければなりません。神は、聖書によって御自分が人間を神の御栄光のために創造されたと語っておられます。ですから、本来人間は神の栄光を現すことを人生の目的とすべきなのです。

神は人を自由な意思を持つ者として造られたので、人は人を創造された神の栄光を現したいという願いをもって生きるべきであるのです。ところがそのような願いをもって生きている人が一体どれだけいるでしょうか。かえって実際はほとんどの人が、神を無視し自分の欲望を満足させることを目的にして生きています。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(新約聖書ヤコブ書第4章1・2節)

と聖書が語っているとおり、この世界に戦争があり、殺人事件があり、窃盗事件、詐欺事件、また多くの裁判沙汰があること自体が、人間が神の目的に反して生きていることの証拠です。聖書が「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。………………彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」と真実を語っています。

人間を見てください。人間には、知性と感情と意思、すなわち人格があります。人間を創造された神は、単に偉大な力だけであるのではなく、完全な人格を持っておられるのです。どんな人でも、自分の愛する家族を殺されたなら、その犯罪者が正しく裁かれることを求めます。人間でさえそうなら、完全な人格を持っておられる神は、全ての罪を正しく公平に裁かれます。罪は裁かれなければなりません。神は義であり、聖なる方であられるので、罪を犯した人を必ず処罰されます。

死後に何があるのか?

神は人を、肉体と魂とを持つ者として創造されました。ですから私たち人類は、肉体の死後も魂は永遠に存在し続けます。なぜ全ての人は死を恐れるのでしょうか。それは、神が、どのような人でも地獄に行き、永遠に神から離別して失われてしまうことを求めておられないので、死後に罪の刑罰があることを直感的に意識させておられるからです。これは神の恵み深い警告です。神は読者の皆様に警告を与えておられ、皆様方を救おうとしておられるのです。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(新約聖書ヘブル人への手紙第9章27節)

と聖書が語っているとおり、全ての人の死後に、その人が生きている間に犯した全ての罪に対する刑罰があるのです。生きている間に罪を悔い改めずに、神に背いたまま死んだ人が罪の処罰を受ける場所を、日本語では「地獄」と言います。地獄の存在は真実です。

しかし、このように言うと必ず「では、一度死んで地獄があると見て来た者がいるのか」と反論する人がいますが、罪ある人間が死んで生き返えるというような事はありません。神は人間が一度死ぬと決して生き返れないようにしておられるのです。ですから死後について語る能力も資格も人間にはありません。死後について正しく証言する資格をお持ちなのは神であられ人としてこの世に来て下さったイエス・キリストだけです。私たちはこのお方のことばに耳を傾けなくてはなりません。

知らなくてはならないこと

神は、実に驚くべき奇蹟的手段をもって私たちに、無代価で、無条件で救いを与えようとしておられます。次の聖書のみことばをお読みください。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(新約聖書ヨハネの福音書第3章16・17節)

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(新約聖書第一ペテロ第2章22~24節)

1982年前、イスラエルの国の首都エルサレムの町の外にある処刑場で、十字架につけられたイエス・キリストは、神の御子であられたのです。神は、御自分の御子が十字架の上に釘付けにされた時、全人類の罪をこの御子の上に置かれたのです。神は御子に人類の罪に対する刑罰を、全て受けさせられました。そして、このイエス・キリストを死後三日目によみがえらせ、その四十日後、五百人以上の証人たちの見ている前で、天に引き上げられました。これは、人が作り上げた空論ではなく、歴史的事実です。

このことによって、神はイエス・キリストが真実の、そして唯一の救い主であられることを証され、キリストを信じる者が永遠の天国で生きることが許されることを実証されたのです。ですから、もしあなたが神の御子、主イエスをあなたのために身代わりに死んでくださったことを認めて、主イエスを救い主として心に受け入れるなら、あなたは救われ、罪が赦され、永遠に神の御国で生きることができるのです。