津久野キリスト恵み教会

ふくいん64号 -2018.10-

召天式

「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」(伝道者の書7章2節)

上記のプログラムは、少し前に実際に行われた、あるクリスチャンの召天式のプログラムです。その中で、何度も賛美がささげられています。また、式の導きを求めるとともに、神様に感謝する祈りがあります。教会で行う葬儀に出たことがない方もおられると思いますが、クリスチャンの召天式には暗く悲しい雰囲気はありません。もちろん、一時とは言え、会えなくなった寂しさはありますが、むしろ神様の恵みを覚える喜びと感謝の時です。なぜ、人が息を引き取ったのに、感謝することができるのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じる者は、たとえ死んでも滅びてはおらず、天国で永遠に生きることを知っているからです。

誰かが、今よりももっとすばらしい新居に引っ越しすると言うなら、私たちはお祝いをするはずです。そして、たとえば何かの事情で父親が先にその新しい家に住み、後で家族も合流するというなら、これは何と希望にあふれた一時の別れでしょうか。同じように、イエス・キリストを信じる者は、自分が死に面した時も、親しい者たちが死を迎えた時も、喜びと希望にあふれているのです。

しかし、あなたはどうですか。クリスチャンではない人たちも、誰かが亡くなった時には葬儀を行います。そして、その中で故人が極楽に行った、天国に行ったという教えはあります。しかし、その葬儀には何と悲しく、重苦しい雰囲気があることでしょうか。それは、故人が良い所に行ったというのが根拠のない気休めに過ぎないことを、実際のところ知っているからではないでしょうか。そして、その通り、イエス・キリストを信じないで死んだ人は、決して良い所には行けないのです。

二つの行き先

聖書は人間の死後に、二つの行き先があると語っています。一つは、死後に罪の刑罰を受ける場所である、火の燃える地獄です。

「殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」(ルカの福音書 12章5節)

「死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。…いのちの書に名の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(黙示録 21章12、15節)

人間は、生きている間に数え切れないくらいの罪を犯しています。偶像礼拝、嘘、争い、ねたみ、悪口や陰口、不道徳、そして何よりも、生きるために必要な全ての物を与えてくださっている神を無視して生きているその生き方(親不孝な者が非難されるなら、神を無視する生き方はどれほど間違っていることでしょうか…)。神様は罪を憎まれる正しい御方ですから、その罪を必ずおさばきになります。そして、人間は死んだ後で恐ろしい永遠の地獄に投げ込まれなくてはならないのです。

罪のない人間は誰もいません。ですから、あなたが今のまま死を迎えるなら、良い所には行けず、むしろ最も恐ろしい「悪い所」に行かなくてはならないのです。

しかし、一方で、神様がおられるすばらしい喜びの場所、天国があることも聖書は明らかにしています。

「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ 3章20節)

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。…もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。」(黙示録21章3、4節)

救いの方法

では、誰が天国に入ることができるのでしょうか。聖書にこう書かれています。

「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」(ヨハネの福音書 11章25節)

神様は罪人である私たち人間をも愛してくださり、御自分の御子を世に遣わしてくださいました。その、人となられた御子なる神こそ、イエス・キリストです。イエス様は私たちの罪を背負うために十字架につけられ、私たちが受けるべき罪の刑罰を全て身代わりに受けてくださいました。そして、死んで三日目によみがえられ、生きておられるご自分の姿を多くの弟子たちに示されました。その後、イエス様は天に帰られ、今も生きておられます。そして、御自分を信じる者たちを救ってくださり、天国に導き入れてくださるのです。イエス様が死の力を打ち破って復活されたように、イエス様を信じる者も天で永遠に生きるのです。

ですから、どうかあなたも、救い主イエス・キリストを信じて罪の赦しを受け、永遠の天国に迎えられる方となってください。そして、確かな希望と喜びを持って、生きる方となってください。