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ふくいん5号 -1998.9-

目次

明日が見えない

不安


「うっかり缶ジュースも買えない。」「紙パックの牛乳を買うときいつも心配になる。」「怖くてお茶が買えない。」
今、このような会話がなされるほど不安が人々の間に広がっています。今日、私たちの心を不安にさせる材料には事欠きません。会社の倒産、失業、就職難などなど、その上にダイオキシンなどの目に見えない物質による環境汚染、さらにはお茶の缶に青酸を入れるという度を過ぎたひどいイタズラ、さらに北朝鮮のミサイル、その他いろいろといった具合です。
 このような時にあたって、私たちはこれらの不安にどのように対処すべきなのでしょうか。嵐が吹き荒れる時、私たちにとって最善なことは、大きな岩を見つけてその陰に隠れることです。そのように私たちを不安の嵐から匿ってくれる大きな岩があるのです。その岩とは、宇宙を創造された、全知全能の神様のことです。

 昔、イスラエルにダビデという王がいました。彼は、王になるまでの間、信仰のゆえに迫害され、命を狙われ、ある時は飢え渇き、耐えられないような苦しみを経験しました。その彼が次のように歌っているのです。

私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。
私の望みは神から来るからだ。
神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。
私は揺るがされることがない。
私の救いと栄光は ただ神にある。
私の力と岩と避け所は 神のうちにある。
民よ どんなときにも神に信頼せよ。
あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。
神はわれらの避け所である。

詩篇62篇5〜8節

 現代でも、ダビデが信頼した神、そしてダビデの信頼に応えて彼を守り助けられた生けるまことの神を信頼している者は、彼と同じように歌い、神を賛美することができるのです。
 ですから、人々の不安に真の原因は、倒産、失業、病気等々にあるのではなく、どのような問題の中でも私たちを守り、また救い出すことができる本当の神を知らないところにあるのです。

人生最大の問題

 人にとって最も大きな問題とはなんでしょうか。それはです。
日本にも多くの宗教があり、神々がありますが、死という問題に明確な回答を与え、完全な解決を与えないものは本当の神ではありません。神のことばである聖書は、それについて何と語っているでしょうか。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

ヘブル人への手紙9章27節

 人間にとっての最大の問題は、死と死後に罪の刑罰にあうことです。これが最大の不安の原因です。この問題が解決されない限り、人には本当の平安はありません。
 罪のうち最も大きな罪は、まことの神に逆らうことであり、神を神と認めないことです。うそ、盗み、憎しみ、敵意、好色、不品行、むさぼり等々はすべて罪です。そして人はすべて罪人です。
人は生涯で犯したすべての罪の刑罰を、死後地獄の中で受けなければならないのです。神は義であり、聖なる方であられるので、罪をすべて罰しなければならないのですが、同時に神は愛なる方であり、一人の者も地獄に行くことを望んでおられず、すべての者が罪を認め、神に立ち返ることを求めておられるのです。

真の不安

 神は私たちを救うために、私たちを愛する愛のゆえに、偉大なことをしてくださいました。神は御自分の御子をこの人間の世界にお遣わしになりました。神の御子は処女マリヤを通して人となられたのです。すなわち、イエス・キリストです。主イエスは人として33歳のとき、人々によって十字架の上で釘付けにされました。その時、私たちの身代わりとなり、私たちの犯したすべての罪を負って、罪のさばきを受けて死んでくださったのです。
しかし、キリストは死後3日目に、死の力を永遠に打ち破り、復活されました。このことにより、神は私たちを愛しておられることを、そして誰でも御子を救い主として信じ受け入れる者を救い、永遠のいのちを与えてくださることを明らかにしてくださいました。
 現在のように不安な時代にあってこそ、私たちは、私たちを愛しておられる生けるまことの神の実在を知り、神に立ち返り、まことの救い、すなわち罪の赦しと永遠のいのちをいただき、真の平安を神からいただくべきであるのです。

不安ではなく安心、恐れではなく平安

死の恐怖からの解放

 不安についてもう少し続けてみてみましょう。
人は誰でも未来に対して希望を持ち、同時に不安も持つものです。しかし誰もが行き着く先である、死について希望を持っている人は本当に少数です。多くの人は「私はどのように死ぬのだろう。死んだ後どうなるのであろう。」と心配しています。「死んだ後、立派に葬儀を行ってくれるだろうか、私の息子や娘は、私なしでも立派にやっていってくれるだろうか」といった心配もあるかもしれません。

死んだらどうなるのか?

 しかしそれ以上に深刻な、また重要な事柄は、私という人間は、死後いったいどうなってしまうのだろうか、ということです。
なぜなら、死後の世界に行って戻ってきた人もおらず、人は死んだ後のことは知りうるすべもないからです。私たちは未知のものを恐れます。私たちが暗い夜道を恐れるのは、何が起こるか分からないからです。ライオンと一緒に動物園の檻に入れられると知っていたならば(もちろん恐いでしょうが)、対策を施すことが出来ます。

 人は死後どうなるかをはっきりとした根拠を持って言うことが出来ないから不安になるのです。いくら進化論者が、「人間はただの物質だ、死んだら無になるのだ」と言おうとも、学校でそう教えられようとも、人々は全く納得していないように見えます。人間がただの物質だと割り切ることが出来るならば、家族の誰かが死んだとしても、適当な大きさに切り分けて生ゴミの日に出したり、苦しい家計を助けるためにそれを食べてもいいはずですが、誰一人そうしようとはしません。かえって、生前、神も仏もあるものかと公言していた人のためにすら、多額の金銭を用いて丁重に葬儀を行い、その人の魂を慰め、極楽往生間違いなしと言って、死後墓参り等の行事を行なっているのです。
これは、人肉を食べてはいけないという法律だけの問題ではないことは明らかです。口では神様のご存在を否定する人であったとしても、心では神様が実際的にご存在されることを知っているのです。

なぜ死を恐れるのか?

 それでは、なぜ人々は死を恐れるのでしょうか。不安を持つのでしょうか。それは、すべての人に罪があるからです。すべての人が、日本の法律上の犯罪人ではありません。しかし、すべての人の心には罪というものが明らかに存在するのです。ですから、死後に刑罰があるかもしれないと思い、恐れるのです。
 今、食物や飲み物に毒物を混入する犯罪が多発しており、多くの人の健康が損なわれ、命を落とした方もおられます。「早く犯人を捕まえてくれ」「私たちを安心させてくれ」また「そのようなひどい奴を罰してくれ」これが多くの人の願いであり、叫びです。不正や裏取引の横行する人間の社会でも、罪に対する刑罰があり、罪はさばかれるのが当然であるならば、ましてやまことの神様が、この罪人である私を罰さないわけはないと分かっているのです。
ですから、人々は死を思うとき不安になり、死を恐れるのです。

 実際、聖なる神様のさばきは筆舌に尽くし難い恐ろしいものです。それは永遠に燃える火の池であり、その火は尽きることがないと聖書に書かれています。この地獄についてイエス様ご自身がこのように警告されました。

『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。
マタイの福音書5章27〜30節

 これは、実にイエス・キリスト様ご自身の言葉です。そして、未来のイスラエル人に対してですが、文字通りの意味で言われたのです。私たちは、自分で自分の目をえぐり出すことができるでしょうか。その痛みがどれほどのものか想像できるでしょうか。ノコギリか何かで、自分の腕を切断する痛みに耐えられるでしょうか。地獄の苦しみは、それとは比較にならない恐ろしい場所であることを、イエス様は私たちに教えてくださったのです。
 イエス・キリストはご自身神の御子であるが故に、天国の素晴らしさはもちろんのこと、地獄がどれほど恐ろしい場所であるかを良く知っておられるが故に、このことを語られたのです。

対策はあるのか?

 人々がなぜ死を恐れるのか、その理由を私たちは聖書から知ることが出来ました。さて、対策はあるのでしょうか。あります。
 イエス様は、十字架の上で死なれました。十字架とは当時の死刑執行の方法でした。言い換えるならば、イエス様は私たちの受けるべきこの恐ろしい地獄でのさばきをご自身に負われ、私たちの身代わりとなって死んでくださったのです。

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネの福音書3章36節

 ここに解決があります。不安ではなく安心、恐れではなく平安。皆様も、イエス・キリストをご自身の救い主として受け入れてくださいますように、心からお勧めいたします。

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