津久野キリスト恵み教会

ふくいん56号 -2015.11-

人生の最後

早いもので、今年も終わりに近づいています。この一年も、様々なことがあったのではないでしょうか。そして、一年の終わりにそれらを振り返る人も多いと思います。

さて、そのような時だからこそ、少し足を止めて考えていただきたいことがあります。それは、一年が終わったということは、同時に人生の終わる時も一年分近づいたということです。そして、この一年間をほんの百回足らず、人によってはほんの数十回経験するだけで人間の生涯は終わってしまうということです。長いようで、非常に短いのです。

多くの人は今をどう生きるかということについては色々と考えますが、人生の最後についてはあまり考えません。しかし、目的地を知らずにどの電車に乗るべきかを一生懸命考えても、正しい答えが出ないのは当然のことです。まず大切なのは自分がどこに向かっているのかを知ることです。そこで、ぜひ、聖書が死という大切な問題についてどう語っているのかを知っていただきたいのです。

死とは消えてなくなることではない

聖書には、死とは何なのかということについて次のように書かれてあります。

「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき…」(創世記 35章18節)

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に…」(ヤコブ 2章26節)

聖書は、死とは肉体とたましいが分離することであると語っています。造り主であられる神様は、人間を肉体とたましいを持つものとしてお造りになりました。私たちはたましいで考えたり、思ったり、感じたりします。そして、肉体で行動します。

私たちは人間がたましいを持っていることをよく知っているはずです。もし人間が肉体だけ、物質だけの存在であるなら、愛とか正しさとかは全て何と空しいことでしょう。誰かが命がけで人を助けたと言っても、それは単に電気信号で体が動いただけの話になります。逆に、誰かが人を傷つけても、それは脳内物質が異常な働き方をしただけだということになります。

しかし、私たちはそのようには考えないでしょう。もちろん、脳の働きはその人の考えに影響を与えますし、密接な関係があります。しかし、私が誰かを愛するなら、単に脳内の物質が相手を好んでいるのではなくて、私が愛しているのです。もし私がしてはならないことをするなら、私という個人全体が責任を問われるのです。人間は決して肉体や物質が全てではなくて、その人自身の内にあって考え、感じ、決断するたましいを持っているのです。

そして、人が死んだ時に肉体は活動を停止しますが、たましいが消滅することはありません。ですから、聖書が語るように、死とはたましいが肉体から離れることなのです。では次の問題は、死んだ人がその後どうなるのかということです。

死後に待つものは

それに対しても、聖書は明確な答えを与えています。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル 9章27節)

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナ(=地獄)で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ 10章28節)

人間は死んだ後で、神様の前に出なければいけません。そして、生きている間に犯した全ての罪に対する刑罰を受けなければなりません。神様はきよく、正しい御方です。ウソ、争い、悪口や陰口、偶像礼拝、心の中にあるねたみや憎しみさえも全て、神様の前には大きな罪です。そして、その死後のさばきの場所は永遠に火が燃える地獄です。恐ろしいことに、最終的に人間には死ぬことのない特別な体が与えられて、「たましいもからだも、ともに」永遠の火の中で苦しまなければならないのです。何と恐ろしく、厳粛なことでしょうか。

もう一つの行き先

しかし、聖書には死後の行き先について、もう一つのことが書かれています。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ 23章43節)

「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」(ピリピ 1章23節)

最初の方は、もうすぐ死のうとしていた犯罪人に対してイエス様が言われたみことばです。後の方は、使徒パウロが語った言葉です。彼らに共通していたことは、生きている間にイエス・キリストを救い主として信じたということです。つまり、イエス・キリストを信じる者のためには、死後にすばらしい天国、キリストとともにいて喜ぶことができる永遠の御国が備えられているということです。なぜなら、イエス・キリストこそ、御子なる神が人となってくださった御方であられ、そのイエス様が私たちの罪のために十字架につけられて身代わりにさばかれてくださったからです。そして、イエス様は死なれた後三日目によみがえられ、弟子たちの前にご自分が生きておられることを示されてから天に帰って行かれました。誰でも、自分の罪を認めて、イエス・キリストを救い主として受け入れるならば罪が赦されるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3章16節)

どうか、あなたも必ず訪れる人生の最後について考えてください。そして、イエス・キリストを信じ、地獄から救われてください。永遠の天国という動かされることのない希望と目的地を知ったうえで、人生を生きる方でありますように。

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