津久野キリスト恵み教会

ふくいん58号 -2016.10-

金持ちとラザロ(ルカの福音書 16章19~26節)

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

(ルカの福音書 16章19~26節)

たとえ話ではありません

さて、これはある時にイエス・キリストがお語りになった話です。イエス様はこの話を、たとえ話あるいは架空の物語としてお語りになったのではありません。通常、イエス様がたとえ話を語られる時には、その前に注釈があるからです。さらに、地獄に行った金持ちの名前は伏せられていますが(恐らく言わなくても当時の人々には誰だか分かったからでしょう)、アブラハムという実在していた人物の名前がはっきり書かれています。ですから、これは実際に起こったこととして語られているのです。そして、この実話を通してイエス様が伝えようとなさったことは、皆様方にも非常に重要なことなのです。それは、人間にとって何が最も大切なのかということです。

対照的な二人

この金持ちと貧しい人ラザロは全く対照的な人でした。金持ちは毎日おいしいものを食べ、高価な服を着て過ごし、遊ぶことができたのです。この「遊び暮らす」という言葉には「祝宴を開く」という意味もありますから、彼には遊び友達もいたと思われます。一方で貧しい人であったラザロは、食べる物も十分にはなく、恐らく何かの病気であり、さらに犬しか彼のもとに来てくれる相手はいませんでした。何と幸せな金持ち! 一方で何と不幸なラザロ! と思われる方も多いでしょう。しかし、イエス・キリストの結論は全く違います。

地獄に行った金持ち

不幸なのは金持ちの方でした。なぜなら、彼は生きている間にまことの神様を信じることもなく、死んで恐ろしいさばきの場所に行ったからです。それは彼が人生の中で犯してきた全ての罪に対する刑罰を受けるためです。そこには一滴の水もなく、身体中を火で焼かれ続け、二度と出てくることができないのです。何とあわれな金持ちでしょう!

天国に行ったラザロ

一方でラザロは慰めの場所に行きました。それは彼が貧しくてかわいそうだったからではありません。彼が神様を信じ、救い主を信じる信仰を持っていたからです。彼はそこで何も不自由することなく、慰めを得、同じように天国に来たアブラハムをはじめとする多くの信仰者と共に神を喜ぶことができたのです。しかも、その喜びは尽きることがありません。何と幸いなラザロでしょう!

最も大切なことは

この話に出てくる金持ちとラザロがあまりにも両極端な人であるからこそ、人間にとって最も大切なものは何であるのかがよく分かるのです。それは、生きている間に創造主であるまことの神様に立ち返り、救い主イエス・キリストを信じて罪の赦しを得ることです。そして、神様のおられる天国に迎えられる者となることです。

多くの人は、金持ちと同じように生きている間のことだけを考えています。しかし、人間は決して死んで終わりではないのです。たとえあなたがどれほど豊かであっても、楽しい人生を送っていても、神から離れて生きているなら、待っているのは永遠の地獄でのさばきです。神様はあなたをそのような場所に行かせたくないからこそ、罪のない神の御子を人として世に遣わし、十字架につけて私たちの身代わりに罰してくださったのです。そして、死なれたイエス様を三日目によみがらせてくださり、この方こそ救い主であられることを証してくださったのです。ですから、どうかあなたもイエス・キリストを信じて天国に入る方となってください。そして、この地上の人生においても、永遠の希望を持って神と共に歩む方になってください。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)